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死して、そして生まれきたるものへ

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2012.11.28 Wednesday

間章解体序説

 時折一般的な認識とはいかなるものなのかと気になることがある。もとより世間の中でバランスを取ろうという意図はなく、自己の認識がどれ程のものなのかと探りたくなるということだけでしかない。そのことについてここでは『AA〜音楽批評家・間章』公開時にガイドとして作られた『間章クロニクル』という書籍のAmazonでのカスタマーレビューを、間章が残した批評への“一般的な認識”を端的に示したものとして紹介しておきたい。その認識は「そして今読むと、間章の文章はフリー・ジャズで完結していて先のベクトルはない、というのを感じる。」いう部分に如実に現れている。直後に「破滅的」「終焉」「死滅」という如何にも“間章的な言葉”がありながらも、そこには表層的にしか見えていない様が感じとれるのである。つまりは字面でしか意味を追わず、それが形作られた背景=広い意味での歴史が蔑ろにされて、なにものも生み出さない抜け殻のように放られている、ということなのだ。このレビューを非難するつもりはなく、これがふつうの見方なのかという思いを強くしたということを言いたいのである。そのことを踏まえて、間章の単行本未収録稿をWEBに再掲載するにあたってはその意図するものに触れておかねばならないと思ったのである。
 件のレビューは一読する限りにおいて至極真っ当な評価の様に見えている。たしかに間章はフリー・ジャズに関しての記述を多く残している。しかしそこが落とし穴なのである。書かれたものがどの時期にどのような視点で書かれたものであるのか、という考察が決定的に欠落しているように思えてならないのだ。時代認識もしくは時代背景あるいは状況というものを抜きにして、殊に批評というものは語れないものなのだ。これを以て批評とする方はほとんどいないと思われるが、この種のものを“知っただけ”で(すべて)解った気になる輩の多いこと。
 間章がなぜフリー・ジャズに触れているのかといえば“フリー”であること、“ジャズ”であること、そしてその根源にあるものについて言及するためなのである。そこには形式化した“フリー・ジャズ”に拘泥する姿は微塵もなく、その後に現れる“新伝承派”という商業主義的な回帰現象の萌芽を視ているのでさえある。また庇護するように加えれば、ロフト・ジャズを経たブルックリンのミクッスド・カルチャーやビル・ラズウェル、ジョン・ゾーンらの起こした動きなど知り様もなく命に刃(やいば)を突き付けられたことも忘れてはならない(果たしてその変容をポジティヴに評価したかどうかは別の問題である)。改めてそのことを併せて考えるとそこが“末路”でも“終末”でもないことは必然的に理解されよう。そこは終着点でも完結の果てでもないのだ。
 ひとたび世間に目を向ければ“そこ”に見えているものはまさしく「一皮むけば」という言葉のとおり薄っぺらな皮一枚で甘くコーティングされた品々が氾濫しているばかりだ。その下に在る果実に(それがどんな味か腐っているのか乾いているのか一切確かめようともせずに)触れようともせず決めればよいとばかりに判断している様がそこここに見えるばかりだ。
 ただ「見えてるものだけしか見ていない」ー“見えているもの”と“見えて来るもの”は厳然として異なる。音楽に限らず政治・経済・情報・流行諸々その様を思うに付け、上滑りするばかりの浮き世に少しばかり石を投げてみたくなる私を見付けるのだった。
(2012年11月28日初稿)

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