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死して、そして生まれきたるものへ

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2012.12.02 Sunday

阿部薫1973年の音源が発掘されたのだが…

阿部薫7枚組

 今年(2012年)の1月末、唐突に『阿部薫CD BOX 1970〜1973』というものがリリースされた。PSFより既発の6タイトル分に加えて1973年の音源を追加した7枚組。個別のジャケットはなく、また解説は付属されず、紙製アウターケース付き8枚収納仕様のボックスに入れられている。録音年月日とメンバーがわかれば問題はないと思うのではあるが、まず既発音源である6枚めまでをPSFリリースの番号と対比させておくと、
  • DISC 1>阿部薫TRIO・1970年3月、新宿(PSFD-56)
  • DISC 2>阿部薫・山崎弘DUO/JAZZ BED(PSFD-67)
  • DISC 3>阿部薫SOLO・またの日の夢物語(PSFD-40)
  • DISC 4>阿部薫SOLO・光り輝く忍耐(PSFD-46)
  • DISC 5>阿部薫SOLO・木曜日の夜(PSFD-66)
  • DISC 6>阿部薫・WINTER 1972(PSFD-158)
のようになる。補足説明しておくとDISC 6は「WINTER 1972」として出された海賊盤をCD化したものだ。

 今回追加されたのは、正確な録音年月日が記されていない「DISC 7>阿部薫SOLO 1973」ー1973年のアルトソロ、22分余。終始ほぼミドルテンポで途切れなく展開される演奏は、同年に録音された『彗星パルティータ』ともまったく異なって、神経を切り裂く(切り裂かれる)ような攻撃性がほとんど感じられない。やさしさややすらぎとは別の、力なく、ただただそこに存在のみを主張している様子で、内にはどうしても迷いのようなものが潜んでいるように思えてならない。しかし聴いているうちにゆっくりとではあるが吸い込まれていくような磁場は確として存在している。それがなければ阿部薫の発掘音源ということを除いてしまえば、聴く価値もほどほどのものである。
 わたしが感じた戸惑いのようなものは、この時期に出逢ったとされている鈴木いづみとのことが無関係ではないような気もする。あまりよい時期ではないとも聞いているが、伝聞憶測の判断が付かない情報も混ざっているので深く触れることは避けておきたい。

 発売当初に版元社長自らmixiにて「五海ゆうじ氏の秘蔵写真を収めた」と告知していたのでそれなりに期待していたのだが、解説もないばかりかアウターボックスに使用された写真は『STUDIO SESSION 1976.3.12』と同一(収納ケースの外側も同デザイン)、ケース内部は既出の多摩川べりで中空を眺めるカット。これ以外に写真はなくケースとボックスには「貴重な写真」とややソフトな表現になっているものの、写真集として別添のブックレットになっているわけでもなく、『阿部薫覚書(阿部薫1949-1978)』などを持っているファンに怒られはしないかと心配するほど。国外の廉価版セットで慣れてはいても粗野さが今だに許せない。まったくもって不満の残るボックスセットで、既発の6枚については後日の加筆となるか定かではない。
(2012年12月2日初稿)

JUGEMテーマ:音楽 音楽論

2012.10.19 Friday

阿部薫の初期音源が発掘されたのだが…

阿部薫4枚組
(左が4枚組ボックス、右の2枚はDIWからリリースされた高柳・阿部のデュオ)

 今年(2012年)1月に『阿部薫CD BOX 1970〜1973』という7枚組のCDが発売されたのだが、うち6枚が既発音源で残る未発表音源が期待はずれだったこともあり(この7枚組には他にも期待を裏切る部分があったがそれは別項にて)、続いて5月に出た4枚組の『阿部薫 未発表+初期音源』は買っておいたものの今まで聴かずじまいだった。
 放置していたのはそのうちAmazonにレビューのひとつも載るだろうと思っていたから敢えて時間を割くこともないと考えていたせいでもある。『スイング・ジャーナル』が休刊してから新譜情報については後継誌である『ジャズ・ジャパン』が劣化版『ジャズ・ライフ』様の出来で読む気にならず、『ジャズ・ライフ』は新生になってから心許ない。かと言って『ジャズ批評』はとうの昔に同人誌未満のクォリティーとなり終わっている(間章が示したものとは別の意味でジャズは死滅したのだろう)。内容確認であればAmazonの素人レビューがあれば不便ながらもなんとかなるので、その感覚に慣らされていたせいかもしれない。しかしどんなに情報量が増えてもネット媒体は伝達の仕方が直線的で比較や思考の場では使い勝手が悪過ぎる。返す返すも紙媒体の有用さを思い知るばかりである。

 この4枚組はDIWより既発の高柳昌行とのデュオ2タイトル分に加えて73年ソロと収録日時未詳のデュオ音源を1枚ずつ追加したとセールスコピーに謳われているのだが…。7枚組同様に個別のジャケットはなく、4枚収納仕様のボックスに入れられている。録音年月日とメンバーがわからないだけではなく(これも7枚組同様に)解説書も付けられていない。mixiにも「解説はないのか」というコメントがあった…この仕様に関しては制作者の意図を計りかねる。
 ということで、まず既発音源である2枚をDIWリリースの番号と対比させておくと、
  • DISC 1>高柳昌行・阿部薫 漸次投射(DIW-425)
  • DISC 2>高柳昌行・阿部薫 集団投射(DIW-424)
となるが、こちらについてはDIW版リリースの遥か前、録音の存在を知った時点から『Gモダ〜ン』誌上で散々紹介してきたこともあり、聴いてはみたものの(期待していた)リマスターが施されているようでもないので割愛する。新たに加えられているものは
  • DISC 3>阿部薫SOLO(1973年未発表音源)
  • DISC 4>阿部薫DUO(初期未発表音源)
DISC 3のソロ演奏は3曲およそ計50分。「7枚組」に収録された「SOLO 1973」に比べ格別の違いがある。後期(晩年と呼ぶには短い生涯なので)の「騒」録音などと比べると間合いの取り方などがフリージャズ“らしさ”を感じさせるもので、勢いや鋭さといった面では既出のPSF音源(7枚組のDISC 1〜6)や同年スタジオ録音の『彗星パルティータ』より劣った印象が否めないものの、これだけを聴いても十分価値あるものと思える。

 さて、ここまでの前置きが長くなったが衝撃はDISC 4にあった。メンバー・日時・場所は未詳となっている。順を追って解説すると1曲めが(データ上では)8分57秒のバスクラとドラムのデュオ。音質は既発のものに比べて悪いが両者とも演奏はかなり攻撃的で好演である。マイクに物が触れたりレベルオーバーで音が頭打ちになったりすることはあるが個人的には気にならなかった。2曲めはおそらく同メンバーでのアルトとドラムのデュオで長尺の31分27秒。コルトレーンとラシッド・アリの『ライヴ・イン・ジャパン』を連想させるような激しいバトルだ。トラックの終端部で音が極端に小さくなるがカセットテープのリード部分に録音されているためかもしれない。3曲めもアルトとドラムのデュオで、なぜか極端に短く1分58秒。このトラックだけを採り上げればなくともよいと感じるのだが、2曲めの続きと考えれば意味が理解できる(このシリーズはカセットデンスケで録音されているのでこういうことが起こったのだろう)。ここまでは演奏の優劣や録音状態が気になるだけで大きな驚きはなかったのだが…これ以降に“宣伝に偽りあり”の衝撃があった。4曲めは16分22秒のトラックなのだが何やらおかしなことになっている…デュオではない…明らかに別の奏者がいる。5分を過ぎるあたりからそれが確信へと変る。演奏開始はアルトとドラムが聞こえているのだが、途中からテナーの音が入っているのがわかり、アルトの音はバスクラやフルートに変る。3人かと思っていたら6分過ぎにハーモニカが入ってくるや、バスクラとテナーが同時には演奏できないフレーズを奏でている。ドラムを含めて4人での演奏かもしれない。このトラックは自己主張ばかりで延々と斬り合いを見せられているばかりで、デュオではないという事実確認が先にたち判断に迷うところだ。そして最大の衝撃はラストトラックである8分44秒の5曲めにあった。演奏開始から弦による低めの持続音が入って来るが、前のトラックの印象もあってかベースのボウイングなのかと思っていた。しばらくするとそれがギターであることがわかり…間もなく奏法からそのギターが高柳昌行であるという揺るぎない思いに変った。ということはどう考えても1970年の阿部薫と高柳昌行、山崎弘であろう。このトリオ演奏の録音が存在したことが既に“事件”であり、短いながらも世に出されたことは感謝の思いに堪えない。トラックの時間から考えてもこの日の演奏がこれだけで終わったとは考えにくく、その上で判断するしかないがこのディスクに収められている5曲の中では抑制のきいた秀逸な出来だ。ともかく演奏の出来を云々するよりも衝撃の方が大きく、正常な判断が下せるものではないので落ち着いてところで追記するつもりだ。ともあれ、DIW版の高柳・阿部のデュオを既に持っている方にとってもDISC 4だけで十分購入価値がある。
(2012年10月19日初稿/10月20日加筆)

JUGEMテーマ:音楽

2012.09.05 Wednesday

簡潔な故に浮かび上がるもの〜伊藤多喜雄 / PING

伊藤多喜雄/PING このところ自分の原風景(原体験)を探る作業をしていて、それは同時に、果たしてそれは日本人として同じような精神構造を成すものなのかと問いかけともなっている。間章は伝承された芸能にも等しく興味の目を向けていたが、原風景については「越後の瞽女唄」のライナーノートでも触れている。
 伊藤多喜雄が新作につけたタイトル「PING」は“ひとり”という意味の言葉だ。このアルバムは“うた”の原点に立ち返るべく6人の奏者とのデュオで織り成されている。
 元来民謡というものは海山川、田畑その他の仕事と深く関わり、多くは櫓が軋む音、牛馬の鈴やひずめの音、共に作業をする人々の掛け声など楽器のない場所で生まれ、その場にある物音や風景に育まれてきたものだ。門付などそれそのものを生業とする歌われ方や、宴の席などで奏でられる座敷唄や音頭など楽器を伴うものはむしろ例外なのである。そしてそれはひとりでの場で唱われることは多くない。民謡とは人と人との交わりの中から生まれてきたものだからだ。そうした成り立ちを踏まえ、“うた”とそれに伴うものと対峙し骨格のみとなって顕わされる、その髄を描き出した作品だ。
 この数年における多喜雄の“うた”には明らかな深層部での変質を感じる。おそらく岩手の寒村野田村に「ソーラン節」の源流を見出すべく拠点を作ったことと無関係ではないだろう。加えて「南部牛追歌」という命に関わる塩と、その流通路にまつわる唄の原点を肌で感じとり、表面的にはわからずとも内側から伝えられるものがより深く刻み込まれたのであろう。それらが本質を変化させているのはないだろうか。民謡においてデュオといえば三味線や尺八との組み合わせとなるのが常道であるが、それを脱してサックス(坂田明)、和太鼓(林英哲)、ドラム(村上“ポンタ”秀一)、オカリナ(宗次郎)、ピアノ(佐山雅弘)、フォークソング(友川カズキ)との対峙としたことで、民謡という枠を超えて“うた”としか名付けようのない作品になっている。そこには民謡ではないもの(友川カズキとの「おとうと」)と新民謡「東京音頭」、原型からかなり崩した友川との「新・乱れドンパン節」が加わっているのではあるが、それらは伊藤多喜雄の“うた”をとおして民謡の在り方と“うた”そのものの独自性が不思議にも一体となって保たれている。このアルバムをもって伊藤多喜雄はワン・アンド・オンリーな存在になったといえよう。

追記:友川カズキとの「おとうと」はPCはじめ小口径のスピーカーではミックスの意図するところを表現出来ないと思われる。なるべく中低音部がはっきりし、高音部も表現出来る環境で聴いていただきたい。
(2012年9月5日初稿)
JUGEMテーマ:音楽 三味線・民謡

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