after AA

死して、そして生まれきたるものへ

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2012.12.12 Wednesday

未明の闇の中へ〜小池知久氏に(2012年12月12日に)

時代の未明から来たるべきものへ

 今年の春、『AA』という映画そして間章という人物にとって重要な方が亡くなった。小池知久氏、享年63歳。
 間章を間章足らしめた著作集はもちろん『時代の未明から来たるべきものへ』であろう。小池さんは『ジャズ』から『ジャズ・マガジン』を通して間さんの担当編集者であり『時代の未明から…』の編者だった。間さんの死後4年程経って『時代の未明から…』は刊行されたのだが、その当時は今のようにDTP化されておらず文体の統一感や誤字脱字などいくつかあり、再刊の際には修正しようとその箇所を逐一チェックされていた。昨年から取りかかった途上での逝去だった。ここに至ってやっとという感はあるが、詳細は未定ながらも来年初めに『時代の未明から…』が月曜社より復刻刊行されるという報せが入った。
 映画制作時はもちろん登場人物としてあるいは公開後にインタビューで間さんのことを語ってもらえるようにお願いしてみたのだが、「それはぼくの知っている間章であって彼の批評とは相容れないから」とそうしたことを固辞されていた。それは裏方に徹するということではなく、理由はわずか2ページばかりではあるが『間章クロニクル』の中に「『AA』について思うこと。」として書き記されている。
 小池さんと最後に言葉を交わしてから1年が経ってしまった。そして今日は間さんの命日である。
(2012年12月12日初稿)

JUGEMテーマ:追悼 注目★BOOK

2010.01.18 Monday

Who's knocking on my door

浅川マキ
 浅川マキさんが亡くなった。
 先週京都で大里俊晴さんを追悼する企画が行われ、そこに行ったことやその意味をそろそろまとめなくては思っていたところだった。改めて思い返すと彼女は清水俊彦さんが詩人であったことをことさらに強く想い起こさせてくれた人だった。と過去形でしか表現できなくなってしまったことがとても哀しい。
 ともかく、今夜は自由に、呑ませてくれ。
 ありがとう。また、ね。マキさん…

 ツギノドアハダレガタタクノダロウカ

(2010年1月18日初稿)

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2010.01.10 Sunday

大里俊晴さん追悼の前に

追悼イベント告知 とりあえず東京近郊での49日代わりなのだろうか、1月9日に横浜で北仲スクール主催の追悼の集まりがあったのではあるが、その報告をする前に、彼へのあるわだかまりについて触れておかなければならない。
 それは95年か96年、『AA』が産声を上げる以前の出来事に端を発する。『ジャズ批評』という季刊誌に掲載されたバール・フィリップスのワークショップについて大里さんが書いた記事の表現についてのことである。幸いにもガセネタその他のマイナーシーンにありがちなつまらないにらみ合いでなかったことは幸いなことだったと思うが、その記事はこんな趣旨の言葉で締めくくられていた。「わたしにはこの行為(ワークショップ)に意味があるのどうかわからない」と。本をどこかにしまい込んでいるので正確を期したものではないのだが、そんなふうにしか読み取れないものだった。まともに読んでしまうと「このワークショップは価値がない」と判断してもおかしくない表現の仕方だった。これには私ばかりでなく、それをコーディネイトした吉沢元治さんを始め、関係する幾人かの人間もかなり怒っていた。もちろん大里さんはワークショップに参加したことは知っていたし、その上で書かれたものではあった率直な感想であることは理解できてはいたのだが、内容や意味が汲み取れなかったのは個人の受容能力や経験・体験の差異から仕方のないこととしても、記事の結論付けがワークショップやバールの行為に対して、あたかも無価値であるかのようにも取られる表現であれば異論を呈しなければならない。もっともあの場でバールが伝えようとしていたものがある種のフィーリングであったことも、それを受け止められる人間とそうではない者とに分けてしまう要因ではあっただろう。しかしながらああいう書き方は今更ながら考えてもあり得なかったと思う。大里さんは当時既に大学で教鞭を執っていた訳なのであるから、物事を方向付けたり結論付けたりする言葉の重要性を、そして大里さん自身が教職というある権威(≒権力)を具えており、ましてそれが雑誌というものに文字として固定され、書店で販売されてしまうことの重さを理解していないとは思えなかった。そう考えると無闇に腹が立っていたのである。会ったら殴る!かもしれない、そう思っていた。

 そうこうしている内に「間章の映画が作られるらしい」「なんか青山ってのが撮るらしい」などと断片的な情報が伝わりはじめ、間さんに関係する人物ということでたまたまわたしが法政大学学生会館で開いたいつみゆうじさんの写真展にその取材があり、映画が進行していることを確認したのである。その後いつだったかは忘れたが、「映画にはガセネタの大里俊晴が関わっているようだ」ということもわかってきた。きっとどこかで会うことになるだろう。決着を付けてやる!そう心に決めていた。
 時は過ぎ、肝心の『AA』は進行したという話もなく、一体どうなっているのかさえ気にしなくなっていた。やがて2006年春になり、年末にやっと公開されるという最後の段階で関わることになった。まだまだ大里さんへの不快感は残されたままだったが、時の成せる技かその記事の真意を問いたいという程度には和らいでいた。ところがある日そのわたしの心境についてある人からこんなことを言われた。「それは内ゲバじゃないか? 同じところを目指しているのに敵と味方がわからないなんて愚かにして不幸だ」と。たしかに目的を失った自己主張が70年代まで続いていた学生運動に代表される思想闘争の終焉を招いたことは明白であったし、至極真っ当な意見だとは思うのだが、やはり問い詰めたい気持ちに変りはなかった。

 かくして2008年の6月29日、この日は念願の『AA』新潟上映。運良く前日新潟市郊外に行く予定だったわたしは迷わず行くことを決めた。プログラムには大里俊晴の演奏もあるとの記載…これで大里俊晴にあの真意を問える…そう考えていた。
 その当日、とても信じられない情報が届いていた。「大里さんが末期ガンであり転移もある」「控室にベッドを持ち込んで万全を期している」「お父さんは必ず演奏を見に来るからガンのことは内密に。心配させたくないから」等々…尋常ではないのはすぐに理解できた。29日は夕刻に東京で打合せを設定してあり、時間的には“対決”することは叶わないなと思っていたのだが、ここで事態は予想していなかった方向に進む。「大里さんって実はエフェクターとか機材のことをきちんとわかっていない」ため誰かサポートが必要だという。スタッフにはまったくその能力を持ち合わせた人材がいない。もうこれは打合せを送らせてサポートするしかないかもな…もうなるようにしかならなかった。そしていろいろ確かめるために様々な想いを押し殺して、大里さんの控室に行くと顔色はよさそうではあるものの、立っているのはかなりつらそうな状態であることは見て取るようにわかった。そして「これが終わったら手術するんだ」とサラッと言いのけ、「灰野さんの機材とか扱えるなら居てもらえると安心だよ、ありがとう」とも言ってくれた。その命懸けで格好付けている姿を見たらすべての怒りはどこかに去ってしまった。あの日がそういう怒りを流してしまえるもので本当によかったと思う。

 そして1月12日には京都で大里さんを追悼するために『AA』第4章の上映とDAWSERの寺井さんの演奏が行われる。
 でもあの記事の言いたいことがなんであったのか問いたい気持ちは今だに持っている。まだ終わらせないよ、大里さん。
(2010年1月10日初稿/2011年9月29日改稿)
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