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死して、そして生まれきたるものへ

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2014.01.01 Wednesday

2014年年頭・感

 既に3冊での刊行が予定されている間章著作集の第1集『時代の未明から来たるべきものへ』および第2集『〈なしくずしの死〉への覚書と断片』が世に出ているので今更とは思うのだが、さて一体この著作を世に問う意味がどこにあるのかと考え続けている。当り前だが死後35年での集成である。字義通りに著作を捉えることは勿論のこと、それが現在と何がどのように繋がっているのか問い直されなければ、明確に批評というものは屍となるだろう。刻々と評価軸は変容し掴み処のないものでもあるのだが、それを避ければ避けるほど益々視界が閉ざされているばかりだと感じる。やはり曲折、迂回が起ころうとも模索し続けねばというところなのか…。

 2013年はここのブログをまったく公開しなかった。生来のずぼらさとそうした迷いのためとしておきたい。
(2014年1月1日)

JUGEMテーマ:日記・一般

2012.12.12 Wednesday

未明の闇の中へ〜小池知久氏に(2012年12月12日に)

時代の未明から来たるべきものへ

 今年の春、『AA』という映画そして間章という人物にとって重要な方が亡くなった。小池知久氏、享年63歳。
 間章を間章足らしめた著作集はもちろん『時代の未明から来たるべきものへ』であろう。小池さんは『ジャズ』から『ジャズ・マガジン』を通して間さんの担当編集者であり『時代の未明から…』の編者だった。間さんの死後4年程経って『時代の未明から…』は刊行されたのだが、その当時は今のようにDTP化されておらず文体の統一感や誤字脱字などいくつかあり、再刊の際には修正しようとその箇所を逐一チェックされていた。昨年から取りかかった途上での逝去だった。ここに至ってやっとという感はあるが、詳細は未定ながらも来年初めに『時代の未明から…』が月曜社より復刻刊行されるという報せが入った。
 映画制作時はもちろん登場人物としてあるいは公開後にインタビューで間さんのことを語ってもらえるようにお願いしてみたのだが、「それはぼくの知っている間章であって彼の批評とは相容れないから」とそうしたことを固辞されていた。それは裏方に徹するということではなく、理由はわずか2ページばかりではあるが『間章クロニクル』の中に「『AA』について思うこと。」として書き記されている。
 小池さんと最後に言葉を交わしてから1年が経ってしまった。そして今日は間さんの命日である。
(2012年12月12日初稿)

JUGEMテーマ:追悼 注目★BOOK

2012.12.02 Sunday

阿部薫1973年の音源が発掘されたのだが…

阿部薫7枚組

 今年(2012年)の1月末、唐突に『阿部薫CD BOX 1970〜1973』というものがリリースされた。PSFより既発の6タイトル分に加えて1973年の音源を追加した7枚組。個別のジャケットはなく、また解説は付属されず、紙製アウターケース付き8枚収納仕様のボックスに入れられている。録音年月日とメンバーがわかれば問題はないと思うのではあるが、まず既発音源である6枚めまでをPSFリリースの番号と対比させておくと、
  • DISC 1>阿部薫TRIO・1970年3月、新宿(PSFD-56)
  • DISC 2>阿部薫・山崎弘DUO/JAZZ BED(PSFD-67)
  • DISC 3>阿部薫SOLO・またの日の夢物語(PSFD-40)
  • DISC 4>阿部薫SOLO・光り輝く忍耐(PSFD-46)
  • DISC 5>阿部薫SOLO・木曜日の夜(PSFD-66)
  • DISC 6>阿部薫・WINTER 1972(PSFD-158)
のようになる。補足説明しておくとDISC 6は「WINTER 1972」として出された海賊盤をCD化したものだ。

 今回追加されたのは、正確な録音年月日が記されていない「DISC 7>阿部薫SOLO 1973」ー1973年のアルトソロ、22分余。終始ほぼミドルテンポで途切れなく展開される演奏は、同年に録音された『彗星パルティータ』ともまったく異なって、神経を切り裂く(切り裂かれる)ような攻撃性がほとんど感じられない。やさしさややすらぎとは別の、力なく、ただただそこに存在のみを主張している様子で、内にはどうしても迷いのようなものが潜んでいるように思えてならない。しかし聴いているうちにゆっくりとではあるが吸い込まれていくような磁場は確として存在している。それがなければ阿部薫の発掘音源ということを除いてしまえば、聴く価値もほどほどのものである。
 わたしが感じた戸惑いのようなものは、この時期に出逢ったとされている鈴木いづみとのことが無関係ではないような気もする。あまりよい時期ではないとも聞いているが、伝聞憶測の判断が付かない情報も混ざっているので深く触れることは避けておきたい。

 発売当初に版元社長自らmixiにて「五海ゆうじ氏の秘蔵写真を収めた」と告知していたのでそれなりに期待していたのだが、解説もないばかりかアウターボックスに使用された写真は『STUDIO SESSION 1976.3.12』と同一(収納ケースの外側も同デザイン)、ケース内部は既出の多摩川べりで中空を眺めるカット。これ以外に写真はなくケースとボックスには「貴重な写真」とややソフトな表現になっているものの、写真集として別添のブックレットになっているわけでもなく、『阿部薫覚書(阿部薫1949-1978)』などを持っているファンに怒られはしないかと心配するほど。国外の廉価版セットで慣れてはいても粗野さが今だに許せない。まったくもって不満の残るボックスセットで、既発の6枚については後日の加筆となるか定かではない。
(2012年12月2日初稿)

JUGEMテーマ:音楽 音楽論

2012.11.28 Wednesday

間章解体序説

 時折一般的な認識とはいかなるものなのかと気になることがある。もとより世間の中でバランスを取ろうという意図はなく、自己の認識がどれ程のものなのかと探りたくなるということだけでしかない。そのことについてここでは『AA〜音楽批評家・間章』公開時にガイドとして作られた『間章クロニクル』という書籍のAmazonでのカスタマーレビューを、間章が残した批評への“一般的な認識”を端的に示したものとして紹介しておきたい。その認識は「そして今読むと、間章の文章はフリー・ジャズで完結していて先のベクトルはない、というのを感じる。」いう部分に如実に現れている。直後に「破滅的」「終焉」「死滅」という如何にも“間章的な言葉”がありながらも、そこには表層的にしか見えていない様が感じとれるのである。つまりは字面でしか意味を追わず、それが形作られた背景=広い意味での歴史が蔑ろにされて、なにものも生み出さない抜け殻のように放られている、ということなのだ。このレビューを非難するつもりはなく、これがふつうの見方なのかという思いを強くしたということを言いたいのである。そのことを踏まえて、間章の単行本未収録稿をWEBに再掲載するにあたってはその意図するものに触れておかねばならないと思ったのである。
 件のレビューは一読する限りにおいて至極真っ当な評価の様に見えている。たしかに間章はフリー・ジャズに関しての記述を多く残している。しかしそこが落とし穴なのである。書かれたものがどの時期にどのような視点で書かれたものであるのか、という考察が決定的に欠落しているように思えてならないのだ。時代認識もしくは時代背景あるいは状況というものを抜きにして、殊に批評というものは語れないものなのだ。これを以て批評とする方はほとんどいないと思われるが、この種のものを“知っただけ”で(すべて)解った気になる輩の多いこと。
 間章がなぜフリー・ジャズに触れているのかといえば“フリー”であること、“ジャズ”であること、そしてその根源にあるものについて言及するためなのである。そこには形式化した“フリー・ジャズ”に拘泥する姿は微塵もなく、その後に現れる“新伝承派”という商業主義的な回帰現象の萌芽を視ているのでさえある。また庇護するように加えれば、ロフト・ジャズを経たブルックリンのミクッスド・カルチャーやビル・ラズウェル、ジョン・ゾーンらの起こした動きなど知り様もなく命に刃(やいば)を突き付けられたことも忘れてはならない(果たしてその変容をポジティヴに評価したかどうかは別の問題である)。改めてそのことを併せて考えるとそこが“末路”でも“終末”でもないことは必然的に理解されよう。そこは終着点でも完結の果てでもないのだ。
 ひとたび世間に目を向ければ“そこ”に見えているものはまさしく「一皮むけば」という言葉のとおり薄っぺらな皮一枚で甘くコーティングされた品々が氾濫しているばかりだ。その下に在る果実に(それがどんな味か腐っているのか乾いているのか一切確かめようともせずに)触れようともせず決めればよいとばかりに判断している様がそこここに見えるばかりだ。
 ただ「見えてるものだけしか見ていない」ー“見えているもの”と“見えて来るもの”は厳然として異なる。音楽に限らず政治・経済・情報・流行諸々その様を思うに付け、上滑りするばかりの浮き世に少しばかり石を投げてみたくなる私を見付けるのだった。
(2012年11月28日初稿)

JUGEMテーマ:批評 日記・一般

2012.10.19 Friday

阿部薫の初期音源が発掘されたのだが…

阿部薫4枚組
(左が4枚組ボックス、右の2枚はDIWからリリースされた高柳・阿部のデュオ)

 今年(2012年)1月に『阿部薫CD BOX 1970〜1973』という7枚組のCDが発売されたのだが、うち6枚が既発音源で残る未発表音源が期待はずれだったこともあり(この7枚組には他にも期待を裏切る部分があったがそれは別項にて)、続いて5月に出た4枚組の『阿部薫 未発表+初期音源』は買っておいたものの今まで聴かずじまいだった。
 放置していたのはそのうちAmazonにレビューのひとつも載るだろうと思っていたから敢えて時間を割くこともないと考えていたせいでもある。『スイング・ジャーナル』が休刊してから新譜情報については後継誌である『ジャズ・ジャパン』が劣化版『ジャズ・ライフ』様の出来で読む気にならず、『ジャズ・ライフ』は新生になってから心許ない。かと言って『ジャズ批評』はとうの昔に同人誌未満のクォリティーとなり終わっている(間章が示したものとは別の意味でジャズは死滅したのだろう)。内容確認であればAmazonの素人レビューがあれば不便ながらもなんとかなるので、その感覚に慣らされていたせいかもしれない。しかしどんなに情報量が増えてもネット媒体は伝達の仕方が直線的で比較や思考の場では使い勝手が悪過ぎる。返す返すも紙媒体の有用さを思い知るばかりである。

 この4枚組はDIWより既発の高柳昌行とのデュオ2タイトル分に加えて73年ソロと収録日時未詳のデュオ音源を1枚ずつ追加したとセールスコピーに謳われているのだが…。7枚組同様に個別のジャケットはなく、4枚収納仕様のボックスに入れられている。録音年月日とメンバーがわからないだけではなく(これも7枚組同様に)解説書も付けられていない。mixiにも「解説はないのか」というコメントがあった…この仕様に関しては制作者の意図を計りかねる。
 ということで、まず既発音源である2枚をDIWリリースの番号と対比させておくと、
  • DISC 1>高柳昌行・阿部薫 漸次投射(DIW-425)
  • DISC 2>高柳昌行・阿部薫 集団投射(DIW-424)
となるが、こちらについてはDIW版リリースの遥か前、録音の存在を知った時点から『Gモダ〜ン』誌上で散々紹介してきたこともあり、聴いてはみたものの(期待していた)リマスターが施されているようでもないので割愛する。新たに加えられているものは
  • DISC 3>阿部薫SOLO(1973年未発表音源)
  • DISC 4>阿部薫DUO(初期未発表音源)
DISC 3のソロ演奏は3曲およそ計50分。「7枚組」に収録された「SOLO 1973」に比べ格別の違いがある。後期(晩年と呼ぶには短い生涯なので)の「騒」録音などと比べると間合いの取り方などがフリージャズ“らしさ”を感じさせるもので、勢いや鋭さといった面では既出のPSF音源(7枚組のDISC 1〜6)や同年スタジオ録音の『彗星パルティータ』より劣った印象が否めないものの、これだけを聴いても十分価値あるものと思える。

 さて、ここまでの前置きが長くなったが衝撃はDISC 4にあった。メンバー・日時・場所は未詳となっている。順を追って解説すると1曲めが(データ上では)8分57秒のバスクラとドラムのデュオ。音質は既発のものに比べて悪いが両者とも演奏はかなり攻撃的で好演である。マイクに物が触れたりレベルオーバーで音が頭打ちになったりすることはあるが個人的には気にならなかった。2曲めはおそらく同メンバーでのアルトとドラムのデュオで長尺の31分27秒。コルトレーンとラシッド・アリの『ライヴ・イン・ジャパン』を連想させるような激しいバトルだ。トラックの終端部で音が極端に小さくなるがカセットテープのリード部分に録音されているためかもしれない。3曲めもアルトとドラムのデュオで、なぜか極端に短く1分58秒。このトラックだけを採り上げればなくともよいと感じるのだが、2曲めの続きと考えれば意味が理解できる(このシリーズはカセットデンスケで録音されているのでこういうことが起こったのだろう)。ここまでは演奏の優劣や録音状態が気になるだけで大きな驚きはなかったのだが…これ以降に“宣伝に偽りあり”の衝撃があった。4曲めは16分22秒のトラックなのだが何やらおかしなことになっている…デュオではない…明らかに別の奏者がいる。5分を過ぎるあたりからそれが確信へと変る。演奏開始はアルトとドラムが聞こえているのだが、途中からテナーの音が入っているのがわかり、アルトの音はバスクラやフルートに変る。3人かと思っていたら6分過ぎにハーモニカが入ってくるや、バスクラとテナーが同時には演奏できないフレーズを奏でている。ドラムを含めて4人での演奏かもしれない。このトラックは自己主張ばかりで延々と斬り合いを見せられているばかりで、デュオではないという事実確認が先にたち判断に迷うところだ。そして最大の衝撃はラストトラックである8分44秒の5曲めにあった。演奏開始から弦による低めの持続音が入って来るが、前のトラックの印象もあってかベースのボウイングなのかと思っていた。しばらくするとそれがギターであることがわかり…間もなく奏法からそのギターが高柳昌行であるという揺るぎない思いに変った。ということはどう考えても1970年の阿部薫と高柳昌行、山崎弘であろう。このトリオ演奏の録音が存在したことが既に“事件”であり、短いながらも世に出されたことは感謝の思いに堪えない。トラックの時間から考えてもこの日の演奏がこれだけで終わったとは考えにくく、その上で判断するしかないがこのディスクに収められている5曲の中では抑制のきいた秀逸な出来だ。ともかく演奏の出来を云々するよりも衝撃の方が大きく、正常な判断が下せるものではないので落ち着いてところで追記するつもりだ。ともあれ、DIW版の高柳・阿部のデュオを既に持っている方にとってもDISC 4だけで十分購入価値がある。
(2012年10月19日初稿/10月20日加筆)

JUGEMテーマ:音楽

2012.09.05 Wednesday

簡潔な故に浮かび上がるもの〜伊藤多喜雄 / PING

伊藤多喜雄/PING このところ自分の原風景(原体験)を探る作業をしていて、それは同時に、果たしてそれは日本人として同じような精神構造を成すものなのかと問いかけともなっている。間章は伝承された芸能にも等しく興味の目を向けていたが、原風景については「越後の瞽女唄」のライナーノートでも触れている。
 伊藤多喜雄が新作につけたタイトル「PING」は“ひとり”という意味の言葉だ。このアルバムは“うた”の原点に立ち返るべく6人の奏者とのデュオで織り成されている。
 元来民謡というものは海山川、田畑その他の仕事と深く関わり、多くは櫓が軋む音、牛馬の鈴やひずめの音、共に作業をする人々の掛け声など楽器のない場所で生まれ、その場にある物音や風景に育まれてきたものだ。門付などそれそのものを生業とする歌われ方や、宴の席などで奏でられる座敷唄や音頭など楽器を伴うものはむしろ例外なのである。そしてそれはひとりでの場で唱われることは多くない。民謡とは人と人との交わりの中から生まれてきたものだからだ。そうした成り立ちを踏まえ、“うた”とそれに伴うものと対峙し骨格のみとなって顕わされる、その髄を描き出した作品だ。
 この数年における多喜雄の“うた”には明らかな深層部での変質を感じる。おそらく岩手の寒村野田村に「ソーラン節」の源流を見出すべく拠点を作ったことと無関係ではないだろう。加えて「南部牛追歌」という命に関わる塩と、その流通路にまつわる唄の原点を肌で感じとり、表面的にはわからずとも内側から伝えられるものがより深く刻み込まれたのであろう。それらが本質を変化させているのはないだろうか。民謡においてデュオといえば三味線や尺八との組み合わせとなるのが常道であるが、それを脱してサックス(坂田明)、和太鼓(林英哲)、ドラム(村上“ポンタ”秀一)、オカリナ(宗次郎)、ピアノ(佐山雅弘)、フォークソング(友川カズキ)との対峙としたことで、民謡という枠を超えて“うた”としか名付けようのない作品になっている。そこには民謡ではないもの(友川カズキとの「おとうと」)と新民謡「東京音頭」、原型からかなり崩した友川との「新・乱れドンパン節」が加わっているのではあるが、それらは伊藤多喜雄の“うた”をとおして民謡の在り方と“うた”そのものの独自性が不思議にも一体となって保たれている。このアルバムをもって伊藤多喜雄はワン・アンド・オンリーな存在になったといえよう。

追記:友川カズキとの「おとうと」はPCはじめ小口径のスピーカーではミックスの意図するところを表現出来ないと思われる。なるべく中低音部がはっきりし、高音部も表現出来る環境で聴いていただきたい。
(2012年9月5日初稿)
JUGEMテーマ:音楽 三味線・民謡

2010.01.18 Monday

Who's knocking on my door

浅川マキ
 浅川マキさんが亡くなった。
 先週京都で大里俊晴さんを追悼する企画が行われ、そこに行ったことやその意味をそろそろまとめなくては思っていたところだった。改めて思い返すと彼女は清水俊彦さんが詩人であったことをことさらに強く想い起こさせてくれた人だった。と過去形でしか表現できなくなってしまったことがとても哀しい。
 ともかく、今夜は自由に、呑ませてくれ。
 ありがとう。また、ね。マキさん…

 ツギノドアハダレガタタクノダロウカ

(2010年1月18日初稿)

JUGEMテーマ:日記・一般 音楽

2010.01.10 Sunday

大里俊晴さん追悼の前に

追悼イベント告知 とりあえず東京近郊での49日代わりなのだろうか、1月9日に横浜で北仲スクール主催の追悼の集まりがあったのではあるが、その報告をする前に、彼へのあるわだかまりについて触れておかなければならない。
 それは95年か96年、『AA』が産声を上げる以前の出来事に端を発する。『ジャズ批評』という季刊誌に掲載されたバール・フィリップスのワークショップについて大里さんが書いた記事の表現についてのことである。幸いにもガセネタその他のマイナーシーンにありがちなつまらないにらみ合いでなかったことは幸いなことだったと思うが、その記事はこんな趣旨の言葉で締めくくられていた。「わたしにはこの行為(ワークショップ)に意味があるのどうかわからない」と。本をどこかにしまい込んでいるので正確を期したものではないのだが、そんなふうにしか読み取れないものだった。まともに読んでしまうと「このワークショップは価値がない」と判断してもおかしくない表現の仕方だった。これには私ばかりでなく、それをコーディネイトした吉沢元治さんを始め、関係する幾人かの人間もかなり怒っていた。もちろん大里さんはワークショップに参加したことは知っていたし、その上で書かれたものではあった率直な感想であることは理解できてはいたのだが、内容や意味が汲み取れなかったのは個人の受容能力や経験・体験の差異から仕方のないこととしても、記事の結論付けがワークショップやバールの行為に対して、あたかも無価値であるかのようにも取られる表現であれば異論を呈しなければならない。もっともあの場でバールが伝えようとしていたものがある種のフィーリングであったことも、それを受け止められる人間とそうではない者とに分けてしまう要因ではあっただろう。しかしながらああいう書き方は今更ながら考えてもあり得なかったと思う。大里さんは当時既に大学で教鞭を執っていた訳なのであるから、物事を方向付けたり結論付けたりする言葉の重要性を、そして大里さん自身が教職というある権威(≒権力)を具えており、ましてそれが雑誌というものに文字として固定され、書店で販売されてしまうことの重さを理解していないとは思えなかった。そう考えると無闇に腹が立っていたのである。会ったら殴る!かもしれない、そう思っていた。

 そうこうしている内に「間章の映画が作られるらしい」「なんか青山ってのが撮るらしい」などと断片的な情報が伝わりはじめ、間さんに関係する人物ということでたまたまわたしが法政大学学生会館で開いたいつみゆうじさんの写真展にその取材があり、映画が進行していることを確認したのである。その後いつだったかは忘れたが、「映画にはガセネタの大里俊晴が関わっているようだ」ということもわかってきた。きっとどこかで会うことになるだろう。決着を付けてやる!そう心に決めていた。
 時は過ぎ、肝心の『AA』は進行したという話もなく、一体どうなっているのかさえ気にしなくなっていた。やがて2006年春になり、年末にやっと公開されるという最後の段階で関わることになった。まだまだ大里さんへの不快感は残されたままだったが、時の成せる技かその記事の真意を問いたいという程度には和らいでいた。ところがある日そのわたしの心境についてある人からこんなことを言われた。「それは内ゲバじゃないか? 同じところを目指しているのに敵と味方がわからないなんて愚かにして不幸だ」と。たしかに目的を失った自己主張が70年代まで続いていた学生運動に代表される思想闘争の終焉を招いたことは明白であったし、至極真っ当な意見だとは思うのだが、やはり問い詰めたい気持ちに変りはなかった。

 かくして2008年の6月29日、この日は念願の『AA』新潟上映。運良く前日新潟市郊外に行く予定だったわたしは迷わず行くことを決めた。プログラムには大里俊晴の演奏もあるとの記載…これで大里俊晴にあの真意を問える…そう考えていた。
 その当日、とても信じられない情報が届いていた。「大里さんが末期ガンであり転移もある」「控室にベッドを持ち込んで万全を期している」「お父さんは必ず演奏を見に来るからガンのことは内密に。心配させたくないから」等々…尋常ではないのはすぐに理解できた。29日は夕刻に東京で打合せを設定してあり、時間的には“対決”することは叶わないなと思っていたのだが、ここで事態は予想していなかった方向に進む。「大里さんって実はエフェクターとか機材のことをきちんとわかっていない」ため誰かサポートが必要だという。スタッフにはまったくその能力を持ち合わせた人材がいない。もうこれは打合せを送らせてサポートするしかないかもな…もうなるようにしかならなかった。そしていろいろ確かめるために様々な想いを押し殺して、大里さんの控室に行くと顔色はよさそうではあるものの、立っているのはかなりつらそうな状態であることは見て取るようにわかった。そして「これが終わったら手術するんだ」とサラッと言いのけ、「灰野さんの機材とか扱えるなら居てもらえると安心だよ、ありがとう」とも言ってくれた。その命懸けで格好付けている姿を見たらすべての怒りはどこかに去ってしまった。あの日がそういう怒りを流してしまえるもので本当によかったと思う。

 そして1月12日には京都で大里さんを追悼するために『AA』第4章の上映とDAWSERの寺井さんの演奏が行われる。
 でもあの記事の言いたいことがなんであったのか問いたい気持ちは今だに持っている。まだ終わらせないよ、大里さん。
(2010年1月10日初稿/2011年9月29日改稿)
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2010.01.05 Tuesday

序として:今、あるいは既に、起きていること…

 既に危機は起きているのかも知れない。
 そのことがまざまざと感じられたのは2007年ジャズ論壇に“清水俊彦の剽窃問題”なる論争(というよりも意図して提示された騒ぎとでも呼ぶのが相応しいのではないかと思う)がその死後程なくして(再び)立ち起こったことによる。この騒ぎの本質、そして結末は愚にもつかないものではあったのだが、それ故この日本のどこに、その意図、その質等々、様々な背景を含め、最早批評なるものが死に絶える寸前、或いは既に死んでしまっているのではないかと深く感じたものである。
 さてさてここでいったい何故映画の公開後3年余りを経て、このような物言いを公開するに至ったのかというと、ひとつは映画の企画が立ち上がりそして公開されるまでの間に湧き起こった隠世感にまとわり付かれ、まさしく天に向って唾を吐くが如き行為について、個人的な嗜好を除いては比し評する行いから遠ざかっていたことがひとつ(他者に対して思考の欠片を呈することが憚られてならなかったのである)。それがようやく癒えたような心地になったからであり、またその批評の死ともいうべき事件にひどく憤り、それが一時の怒りではない別の想いに転化され、本当にどうにかならないものかと考え始めたからである。
 ここからようやっと『AA』のことに入る。この極私的物言いの場では“間章のこと”には余り深く掘り下げることも、またその人自体についても多く触れることはないのではないかと思っている。つまり“間章のことやその文章”などを知ったところで本質的に『AA』という作品を知ったことにはならない。単に“知った”だけでは、字義通り情報が蓄積されたに過ぎず、いたずらに無意味な間章の神話化・神格化を行い、もしくはそれを補強するに過ぎないからだ。少なくともそうした無益な神の創出は避けるつもりではある。しかしながら一旦、いつかは誰かが『間章』をマテリアルとしてものを語り、評することが行われるのは想像の範囲ではあった。それが呈示された後、ただそのままに放置しておくことは、それこそ神話化し、増強する行いではないかと感じ、ここに余計な物言いを始めようとしたのである。
 結局のところ、まだまだ右往左往してみたいと思っているだけなのかもしれない。
(2010年1月5日初稿)

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